日本のインテリジェンス研究

 Apemanさんのところで歴史叙述と情報戦の関係について触れたので、この機会に日本におけるインテリジェンス研究の動向について整理してみたい。最初に断っておくと、「インテリジェンス研究」というと日本語でも英語でもArtificial Intelligence、つまり人工知能に関する計算機科学や認知科学の一分野を指す場合が多いけれども、以下で述べるのは特務機関や暗号、CIAといったときに想定されるインテリジェンスのことである。

 日本のインテリジェンス研究は大別すると外交史系、メディア研究系、安全保障論系の三つに分けられる。一般にインテリジェンスには、諜報(intelligence)、謀略(special operations)、宣伝(propaganda)、防諜(counter-intelligence)の四つの機能があるとされるが(これは旧陸軍参謀本部第二部のそれと一致している)、外交史系は諜報・防諜への関心が強いのに対して、メディア研究系は謀略・宣伝への関心が強く、安全保障論系はこの四機能全体をより上位の戦略・組織との関連で研究する傾向がある。従来は外交史系がインテリジェンス研究の中心であったが、近年は冷戦後の資料開放、国際情勢の変化もあって後二者の分野も活発である。

 外交史におけるインテリジェンスへの関心は政策決定過程を解明する志向のもと古くから存在していた。日本におけるこの分野での定番テーマは太平洋戦争であり、とりわけ真珠湾攻撃前の日米交渉においてインテリジェンスがどのような役割を果たしたか、という論点である。代表的な研究者には須藤真志、塩崎弘明、井口武夫、簑原俊洋らがいる。ただし、ここでのインテリジェンスはあくまで外交史を補足するものであり、マジックや日本版ブラック・チェインバーなども多種多様な資料のうちの一つとして位置づけられがちであった。これに対して近年外交史とは独立した分野として情報史(Intelligence History)を確立しようとする動きがある。日本でのそれを牽引しているのが小谷賢である。小谷はまた従来日米戦争に偏りがちだった研究動向にイギリス側の資料を導入している点でも意欲的である。この新しい動向は次に述べるメディア研究系のインテリジェンス研究と通じるところが少なくない。

 メディア研究におけるインテリジェンスへの関心は情報機関によるプロパガンダや秘密工作に対するものが中心である。この分野での定番テーマは戦中・戦後の米国情報機関による対日工作(日本軍兵士へのビラ撒きから自民党への資金提供まで)であり、また占領期におけるSCAP/GHQによるマスコミ検閲(映画から児童書まで)である。社会心理学、マスコミ研究の分野からインテリジェンス研究に参入してくるのはあるいは奇異に映るかもしれないが、前者に「情報操作」への関心があることを考えれば当然のことである。この分野の代表的な研究者には山本武利、佐藤卓己土屋礼子、有馬哲夫などがいる。この立場の強みは、インテリジェンスを(国務省や陸海軍のような)狭義の外交機関に従属し、包摂されるものとみなすのではなく、それ自体を一個の対外政策の遂行者としてみなす視点をもっていることである。これによって国家対国家という伝統的な外交関係だけではなく、国家対民衆という総力戦以後の外交関係におけるインテリジェンスの働きが析出されるようになった。この点は外交史系の研究には望めないものである。また山本らは、こうした問題系が当然に要請する学際的な研究を糾合する場として研究会・雑誌を主催し、資料を公刊することで、インテリジェンス研究の確立に多大な貢献をしている。

 安全保障論におけるインテリジェンスへの関心は安全保障に関わる政策や組織の一構成要素として情報機関とその活動に対するものである。この分野での定番テーマは9/11を予測・予防できなかった米国情報機関の失敗とその教訓であり、また日本におけるインテリジェンス・コミュニティの後進性である。代表的な研究者には江畑謙介、北岡元、落合浩太郎、土屋大洋などがいる。この分野の特徴は日本におけるインテリジェンスの貧弱さを問題視し、冷戦期とは異なる国際的文脈・技術的条件に対応したインテリジェンスを新たに構想しようとする政策科学志向である。グローバルには9/11、リージョナルには両岸関係、朝鮮半島、ナショナルにはオウムや移民などがそうした構想を要求するセキュリティ上の「不安定要因」とされる。日本版NSCの設立やインテリジェンス・コミュニティの再編、ヒューミント(人的諜報)の充実といった政策の立案にあたって、こうした安全保障論系の研究は存在感を発揮している。

 以上のように、日本におけるインテリジェンス研究の動向を三つに大別したが、この分類はかならずしも厳格なものではなく、しばしば研究対象・研究者は重なり合っている。例えば、春名幹男や加藤哲郎の研究は外交史的であり、かつメディア論的である。上述の小谷は安全保障のあり方についても発言しているし、土屋大洋の本来の関心は情報革命であり、山本の仕事はインパールの光機関、延安のOWIにまで及んでいる。他方で、こうした研究は同じ「インテリジェンス研究」という看板を掲げていてもかならずしも交流があるわけではなく、今後この三分野が学問的・制度的に統合される見込みは当分ないように思われる。もちろん研究関心、対象、方法が異なるのだから、この三分野が棲み分けているのにもそれなりの合理性があるわけだが、それ以上に「インテリジェンスとは何か」という問いに対する理論的な位置づけが追究されていない点にこそ、三者の対話を困難にしている根本的な理由があると個人的には考えている。 
 ここではもっぱら日本国内の研究動向に限って雑駁な整理を試みた。もちろんこれは海外の動向とは無縁の現象ではないが、勉強不足なのでそのへんの関係についてはここでは触れない(これは国内の研究史については勉強が十分であると言っているわけではなく、ありうべき誤りや不足は指摘していただけると幸いである)。この点、小谷は自身のブログで英米露独中のインテリジェンスに関する研究を簡潔に紹介していて裨益するところ大なので、併せて参照されたい。
小谷賢氏のブログ「情報史研究会」

真珠湾<奇襲>論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交 (講談社選書メチエ)

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イギリスの情報外交 インテリジェンスとは何か (PHP新書)

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ブラック・プロパガンダ―謀略のラジオ

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象徴天皇制の起源―アメリカの心理戦「日本計画」 (平凡社新書)

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情報と国家―収集・分析・評価の落とし穴 (講談社現代新書)

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CIA 失敗の研究 (文春新書)

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