リベラルな権力者の歴史家、シュレジンジャー・ジュニア死去

 アーサー・シュレジンジャー・ジュニアが2月28日、89歳で亡くなった。ハーバード大学で教え、二度のピュリッツァー賞に輝き、ケネディ政権の特別顧問を務めた後は雑誌やテレビでも活躍したアメリカを代表する歴史家だった。ここでは彼の死を悼む『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・タイムス』の訃報記事を紹介したい。
A Partisan Historian of Power - New York Times

http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/03/01/AR2007030100053_2.html


・同名の父親も社会史・女性史のパイオニアとして有名な歴史家であるが、本人は子ども時代に母親に静かにしなさいと言われて、「母さんが事実と異なる発言をしているのに、どうやって僕は黙っていればいいっていうの?」と答えたという。
・『タイム』誌は、生涯クラス一の秀才的存在でありつづけた彼のことを「永遠のクイズ少年」と呼んだ。
・視力がよくなかったので第二次大戦中は情報機関で働いていたが、ルーズベルト大統領から演説原稿を書くようにと指示されたときも、原稿なんかどうせ見もしないくせにと思っていた。
・戦後ハーバードの教員になったときには、授業に神経質になるあまり毎度ゲロを吐いていたが、そのうちに要領をつかんでくると彼の「歴史169」コースは学科で最も人気のある授業になった。
ケネディの大統領選挙中は、対抗馬のニクソンが大統領になると「この国は平凡と御託と賄賂と倦怠に沈み込むだろう」とこきおろし、ケネディなら「我らが輝かしい理想」にいたることができると応援した。
ケネディ政権内部ではキューバに対するCIAの秘密工作に批判的な少数派の一人であったが、マスコミには作戦参加者の数に関して嘘をついて、「忠実な兵士」ぶりを示した。後に彼は、私は嘘をついたが、ホワイトハウスに残りたいなら他に仕様がなかった、「のるか、そるか」だと述べている。
ケネディが暗殺され、ジョンソン政権から離れた後、彼は政権の内幕を描いた『ケネディ:栄光と苦悩の一千日』を発表し、二度目のピュリッツァー賞を受賞した。しかし、本作はケネディの女性関係には口をつぐんでおり、批判者からは「政治小説」、「宮廷哲学者」とも言われた。
・彼の信条はリベラルではあったが、1980年代以降の政治的な正しさを求める多文化主義にはけっして与することなく、アフリカ中心主義はクー・クラックス・クランの同類だと言って憚らなかった。


 ニューヨーク・タイムズはこの記事に"a Partisan Historian of Power"の見出しをつけた。彼はルーズベルトケネディといった「リベラルな権力者」を描いたが、それと同時に彼自身が「権力をもったリベラルな歴史家」でもあった。